「外皮つき糖蜜漬缶詰」 |
明治5年ごろ |
文献によると、みかん缶詰の広告が明治10年代の「朝野新報」に掲載されたとある。製造元は東京銀座・中川嘉兵衛、発売元は神崎三郎兵衛で、製品は「外皮付き糖蜜漬」であった。この年代は特定できないが、中川が缶詰機械を輸入して缶詰製造の研究に入ったのが明治5、6年ごろであり、同13、4年ごろに牛肉缶詰を製造・販売していることから類推すると「外皮付きみかん糖蜜漬缶詰」の製造・販売もほぼ同時期(明治13、4年ごろ)と推測される。ただ、外皮付きみかん缶詰の本格的販売がなされたという形跡は見られない。 |
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外皮を剥皮し、内果皮を剥皮しないで砂糖漬けにした「丸みかん缶詰」 |
明治30年ごろ |
明治30年ごろに外皮を手剥きして、丸のまま肉詰めした「みかん缶詰」が製造され、市場出荷された。売れ行きはあまりよくなかった。大正6、7年ごろに「丸球蜜柑の砂糖漬け(外皮を剥き、丸のまま2個ぐらいシラップとともに肉詰め)」が製造販売された。本製品は、液が混濁し外観が悪かった上、風味をも損じたため、評価は低かった。現在では、これを大幅に改良した「丸みかん缶詰」が業務用として発売されている。 |
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内果皮を手やナイフで剥皮した「みかんシラップ漬缶詰」 |
大正年代 |
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内果皮をアルカリで剥皮した「みかんシラップ漬缶詰」 |
昭和2年 |
昭和2年に広島の加島正人がアルカリによる内果皮剥皮を実践し、100缶近くの製品をつくった。ただ、アルカリのみでは十分剥皮できない部分があったため、残った内果皮と白繊維をピンセットで取り除いた。加島の実行したアルカリ剥皮法は、「綿布の両端を竹の柄に通し、房を離したみかんを少量ずつ取り出し、3%〜5%の苛性ソーダ液を入れた桶の中で、左右の柄を上下させて、みかんの房同士の摩擦によって自然に剥皮されるように考案した道具を使用した。 |
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内果皮を酸とアルカリを併用して剥皮した「みかんシラップ漬缶詰」 |
昭和8年 |
昭和8年に四ツ菱食品(株)が酸・アルカリ併用した内果皮剥皮法を実践した。アルカリだけの剥皮では瓢嚢背部の白繊維が残り、酸だけの剥皮では作用後に機械に摩擦してやらなければ瓢嚢を十分に分離することができなかったことを改良したものである。 |
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缶切のいらないイージーオープン缶に充填した「みかんシラップ漬缶詰」 |
昭和40年代 |
家庭に缶切りを常備していなかったり、開缶時に缶切りを探すのが手間といった理由から、缶切り不要の缶詰を望む声が強くなったことを受けて、昭和40年代ごろから缶高の低い魚類缶詰をイージーオープン缶製品が普及し始めた。缶高の高いみかん缶詰など果実缶詰にイージーオープン缶が採用されだしたのは昭和40年代半ばから。 |
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透明プラスチックボトルに充填した「みかんシラップ漬」 |
平成年代 |
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透明プラスチック袋に充填した「みかんゼリー」 |
平成年代 |
缶詰は外から中身を見ることはできない。消費者は中身の確かさを信頼して缶詰を購入することになる。それゆえに、缶詰商品を提供する製造業者や販売業者にとって大切なことは、消費者から寄せられるこの期待を裏切らないことであり、いわば“信頼”を詰めることがもっとも肝要になる。缶詰の提供者は登場以来200年にわたって、信頼を詰め続けてきたし、現在でももちろんこの姿勢を維持し続けている。さまざまな加工食品が市場に登場してきているのと並行して、自分の目で中身を確かめてから商品を購入したいという消費者も増加してきている。この要請にも応えるため、透明ボトル詰め商品が販売され、さまざまな味や食感などを味わいたいという要請に応えて袋詰のゼリー漬などの製品が販売されるようになっている。 |
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